音楽監督メッセージ⑤
ポスト・フェスティヴァル雑感
長い音楽祭も昨日で終了した。おそらく今回の津山の音楽祭は、国内の音楽祭のなかで最長のものの一つであろう。このように音楽祭の期間が長期にわたったのは、それなりの理由があり、メリットもデメリットもあると思うが、もともと〈フェスティヴァル〉は、〈祭り〉〈祭礼〉〈祭祀〉であるから、期間をいっそう限定して行うことが望ましいと思う。〈ごんご祭り〉が1週間も続くことは考えにくいだろう。
しかし音楽祭の期間が長かったため、私は、この30年間のなかで最も長期にわたって津山に滞在することができた。私はこれまでになく、東京や郡山から知人や友人を音楽祭に招いてみた。初めて人口10万人の津山市を訪問した親戚や友人たちは、津山の音楽祭を楽しむと同時に、洋学資料館や衆楽園を訪れ、おいしい食べものを楽しんでいた。この音楽祭が今後も続くようなら、観光と音楽祭をいっそう密接に結びつけることも可能だと思う。
私自身は自転車事故で脚が不自由なため、あまり散策ができなかったのは残念である。しかし、津山国際ホテルの新築工事の隣の公園~小学校があった場所らしい~に行き、風の彫刻家新宮晋の作品を見たときはなつかしさに心がみたされた。この小さな風の彫刻塔は、30年前の音楽祭創設の時に、私が大阪の新宮のところに出かけ、当時の商工会議所が設置したものである。現在の彫刻塔にはいっさいの説明文がないが、音楽祭開始の記念すべきモニュメントとしてプレートを作って説明しておくべきだと思う。
音楽祭の個別的な演奏会についての感想は山ほどあるもので、ここに記すことはできない。しかし今回はじめての音楽祭記念パーティは、これまでの音楽祭の様々な人々が参加したとても意義のあるものだった。私は30年前からの友人、親友たちに数多く会い、友人たちの容姿には30年の歳月がきざまれていたが、話をしはじめるとあっという間に昔の時代に戻るのはなんといっても不思議な現象だった。《千人の交響曲》の指揮者井上道義、オペラ《狂おしき真夏の一日》で話題を集めている作曲家三枝成彰、第6回音楽祭の時に津山でオンドマルトノ奏者としてデビューし、この秋にはメシアンのオペラ《アッシジの聖フランチェスコ》で注目を集めた若手大矢素子が、記念パーティのために多忙なスケジュールの合間をぬってお祝いのメッセージを寄稿した。アナウンサーはひじょうにみごとに祝辞を読みあげていたが、この3人のメッセージを聞いている人はほとんど皆無であった。
話はここで横道に入る。実は音楽祭を開始したときに、副監督であった私は、総合パンフレットと、音楽祭終了後のレポートの作成を提案し、30年間その形態は守られている。このたびの10回目、30周年記念のレポートのパートは特別なもので、これまでの30年の歴史を踏まえたものであるべきだと思い、すでにエッセイその他は依頼済みである。前出の3人の音楽家の貴重な祝辞もそこに入れるべきだと思う。それとロダン作マーラー像の除幕式も行われ、私はその経緯についての文章を読んだ。これもレポートに入れておかないと、マーラー像が津山にある意味も経緯もだれも知らないということになりかねない。
こうして音楽祭をふりかえっていると、蘭学の街津山で〈江戸の洋楽事始〉のような展示会が開かれたこと、エリック・サティの《ヴェクサシオン》840回連続演奏が成功したことなど、いろいろ思いだされるが、それらは次の10年、次の30年のためのしっかりとしたステップになっていると思う。祭りは終わった。深まりゆく秋の日々、これからは日常生活のなかで音楽する営為を、静かに個人的なレベルで続けていく時期に入った。祭りは終わり、季節は変わったのである。